「あがり症」「緊張症」の対処方法は、いろいろ試してきた
「あがり症」や「緊張症」であることを、自分自身で納得して、薬で対処できるようになったのは30代後半でした。それまでは何とか克服できるのではないかと、思ったことは本当にいろいろ試しました。
1:話し方教室
= イマイチ内容が?心臓のドキドキは精神論では止まらない。
2:カラオケ教室
= これは無理強いされた時に、歌う曲を固定化させておき慣れておくという意味ではまあまあですが、他の状況には当然まったく効かない。
3:挨拶する前に飲酒
= これは試しましたが最悪です。意味なし。心身ともに健康に悪い。
4:全部原稿書いて棒読み
= 途中でこの原稿を棒読みしていることを放棄して、 逃げたくなる自分がいた。
わたしには、これらは全部ダメでした。
「苦手なシチュエーションにならないか」と、常に危機察知レーダーを360度全方位に全力で回して生きていましたので、精神的に疲れること。それにだんだんと、危ないところは避けるようになります。でも、その「あがり症」「緊張症」にとって危ないシーンは、そうでない人にとっては、楽しいシーンばかり・・・。
1:宴会・飲み会・忘年会
2:カラオケ
3:パーティー
4:結婚式(2次会含む)
5:ゴルフコンペ
6:受賞式
7:年頭発会・年末納会
8:団体旅行(社員旅行)
などなど、人が多く集まりワイワイ楽しくやる時です。今は「会社の宴会ありえねー」というのも有りですが、80年代から90年代は、ぶっちぎるのは無しという時代でした。
しかも、残念ながらこういう集まりで一番活躍し盛り上げるタイプの人は、上の世代の受けが良いという現実が有り、わたしは当然受けが悪い若手でした。わたした別に無理して他人と対立したいわけでもなく、只々こういうシーンが本当に苦手なだけです。心にいつも重いものがあった時代です。「頼むから仕事は上手くやってるんだから、後はほっといてくれないか」と、いつも思っていました。
「あがり症」「緊張症」は、人生がマジできつい時がある
今思い出しても「あれはきつかった・・・」「心が痛かった」と、強く思い出に残っている出来事があります。
「あがり症」で失恋
大学1年の時に、同世代の女性を好きになりアタック!、付合うことができました。ところが、彼女とレストランで食事をしようとすると、吐き気がして食事がまったくのどを通らない、という症状が出てしまいました。たぶんこれが、高校の修学旅行の時にバスの車内で全員が一回歌うとう義務になり、歌えないという恐怖感と闘った時以来の強く出た症状でした。
大好きな 彼女がいて、デートをする、ところがレストランに行くと食事ができない、これ若い二人にとっては、最悪です。何とかばれないように取り繕い、食事を避けて飲み物だけにしたりしましたが、まだまだメンタルのコントロールができない大学生の時です。わたしの「あがり症」「緊張症」のせいで、だんだんとギクシャクしていくのが、自分でも感じていました。この最高の喜びから落ちていく事を感じているのに、自分ではどうにもできない、きつい日々でした。
こういう自分の症状は、自分でも認めたくないので、ましてや好きな女の子には言えないのです。ずいぶん年が経ち仕事でも「実はオレ緊張症で心臓がドキドキするんだ」とは最後まで言えなかったですから。別れを切り出された日のことは覚えています。失恋の痛みももちろんですが、「オレってどうなってしまうんだろう?」という、「あがり症」「緊張症」の症状への恐れも強く感じたことを覚えています。あれは、どうやって立ち直ったのかな・・・映画かな?ロックかな?
「あがり症」で宴会が白ける
もうひとつは社会に出て、24歳か25歳の時だったかと思います。社の若手社員が集まって社長と飲み会となりました。20人くらいいたでしょうか。なぜか急に一人ずつ歌を歌うということになってしまいました。カラオケだって準備しないとできないわたしなのに状況はアカペラです。わたしがその席で考えてたことは、ひたすら絶望です。今なら自分は無理強いしないですし、断る勇気はありますが、当時はまだその勇気を持っていなかったです。頭の中で必死に自分がなんとかで切り抜けられる方法はないか、を考えていました。当然自分は手を上げないので、最後の一人とか二人まで残っています。こういうのを普段おとなしい人が、平気な顔でこなせるのを見ると、頭がくらくらします。それに引き替え、普段は仕事をガンガンまわしている自分は・・・・・。
自分の順番になり、ライオンの群れに追い込まれた小動物の状況です。ふるえるか細い声で、ぼそぼそと、必死で歌みたいなものをつぶやきました。顔は真っ赤で、汗を流して。泣きませんけど、泣きたい心境でした。みんなの反応も困惑、無理に追い込まなければ良かったなあと、思っているのがありありと見えました。見事に宴会を白けさせましたが、その後このことは誰もふれませんでした。気を使わせたようです。
どうやって立ち直ったのか、ですか?・・・わたしは、この会社を辞めました。自分がやりたくないこと、嫌だと思っていることを、無理やり追い込んまれたというわだかまりが自分の中に残り、せっかく好きだった会社だったのですが楽しくなくなってしまったのです。同業他社に転職(転社)しました。辞表を出した時に会社は驚いていましたが、一度心が離れたら仕方がないです。特にこのことは、退社理由として言いませんでしたが。
「あがり症」で会議失敗
最後は35歳くらいの時の会議室の出来事です。20人ぐらいの会議だったのですが、私の会社から3人ぐらい出てたでしょうか。あとはお客様でした。一人づつ挨拶をすることになったのですが、自分の番になったときには、心臓バクバク、声は震え出ない、頭の中は真っ白、というフルコースの症状が出てしまいました。お客様が心配してこちらを見ていたのを今でも覚えています。
その後どうしたか?というと、確かこれがきっかけで、医者に行くことにしたと思います。
医者に行くことで対応できる状況が増えた
それまでにいろいろ本を読み、自分の状況を分析しました。自分の「あがり症」「緊張症」の症状や、強く出るシチュエーションなどを整理し、自分でどういう状況に持っていきたいかを、考えてから医者に行きました。
わたしの「あがり症」「緊張症」の症状は・・・、
1:うつの症状は全く出ていない、
2:パニックの症状も全く出ていない
3:満員電車も大丈夫、
4:唯一人前で発表や何かパフォーマンスをする時だけがダメ、
5:急な指名はまったくダメ、
6:なぜか大丈夫な時もある
という症状でしたので、
1:毎日薬は飲みたくない
2:定期的に通院したくない
3:症状が出る時の対処療法を望む
ということで、医者に行きました。
こちらも事前に読んだ本でこれかなと思っていた、心臓のドキドキをおさえる βブロッカー薬をいただくことになった次第です。
その後は・・・、
この薬を飲むのは多い時で、1年に10回から15回(10日から15日)くらいでした。後は嫌だと思ったら、断るか、ぶっちぎります。この立場を得られるように努力してきました。今年はダウンシフトして、活動の中心を法人から個人へシフトしてますので、飲む回数はかなり減ると思います。でも、この薬はお守りとして常備していくつもりです。
つらかったことも思い出になる
青春の日々に「あがり症」や「緊張症」があると、面倒な時もありました。好きな女の子ができた時は特に・・・。もっと早く薬で上手くコントロールすることを発見していたら、という後悔も自分にはあります。それでも、ことが起こった当時は、本当につらくて、きつくて、悲しかったことも、何年もたつと思い出になってます。
1:症状に対処する経験値が上がったこと、
2:急な指名でも苦手なシーンは断る勇気を知ったこと、
3:他人と群れないことが気にならなくなったこと、
4:つまり、『自分の時間や人生を自分でコントロールできるようにする』
そうすれば「あがり症」「緊張症」と付き合うことが難しく無くなりますので、ぜひ同じ症状の方は、落ち込まないでください。いまは同じ症状でブログ発信している方もたくさんいますので、いろいろな対処方法を検索できる良い時代ですから。
※ このブログを読んだ方で自分の周りに「あがり症」「緊張症」かな?と思う人がいたら、さりげなく助けてあげてくださいね。心の中ですごく感謝されるはずです。
(それでは・・・あいすみません)